Masuk『氷室さん、だよね?』
ナポリタンを載せたトレーを手に、背中まで黒髪を伸ばした女性が立っていた。 ――八年前。神本芸術大学一年の秋。 昼休みの学食は、いつものように混み合っていた。人の多い場所は好きではない。けれど、裏門近くのユイット珈琲もこの時間帯は混雑しているし、さらに遠くまで行けば、雪臣の足では昼休み中に戻ってくるのが難しい。味は好きだったから、入学してからはずっと学食を利用していた。今では、杖を使う雪臣を見て、学食のスタッフがいつもの窓際の席までトレーを運んでくれるようになっていた。 そうして指定席のようになったテーブルで、雪臣はいつも一人で昼食を取っていた。その目の前の席だけは、必ずぽっかりと空いている。 どれだけ混雑していても、誰かが雪臣と同じテーブルに着くことはなかった。入学当初から、氷室財閥の御曹司として遠巻きに見ている者がいることには気づいていたが、話しかけられることはなかったし、雪臣から誰かに話しかけることもなかった。 それで困ることはなかった。 『ここ、座っても大十月になった。 会議室の隅に座った珠希は、落ち着かない様子であたりを見回した。 氷室百貨店の周年記念企画に向けた会議――。 開催は来年四月。小さな宝飾商から始まった氷室百貨店が、創業八十周年を迎える節目の大催事だ。テーブルには、各フロアの売場図面や過去の催事写真をまとめた資料が並んでいる。その中に置かれた珠希の『環愛』の企画書は、どこか薄く見えた。 瀬原に出席を求められたものの、HIMUROに入社してから珠希が主に担当してきたのは、雪臣とのマリッジリング制作だった。そのため、周年記念についてはほとんど何も知らない。 そわそわしていると、あとから入室した雪臣が、通りすがりに声をかけてきた。 「聞いているだけでいい」 「でも、参加するか決まる前に、会議へ同席してもいいの……?」 「参加するかどうかは、あとで」 小声でそう告げると、雪臣はそのまま奥へ進み、上座に腰を下ろした。 ほどなく各部署の担当者が揃い、会議が始まった。 照明が落ち、スクリーンに資料が映し出された。 周年記念は一日限りの式典ではなく、四月を中心に全館で展開される。各売場が、氷室百貨店のこれまでの歩みと、これからを顧客に伝える企画だという。 HIMUROはむやみに新作を増やさず、既存商品の展示や店頭演出を充実させる。数を追うのではなく、一点ごとの価値が伝わる売場を目指す方針が、参加者の間で改めて共有された。 これまで二人で作ってきたマリッジリング。その先に、百貨店全体へとつながる大きな仕事が広がっている光景が浮かんだ。 「続いて、周年企画の前後に予定されている競合催事の動向です」 瀬原の言葉とともに、画面が切り替わった。 大きく映し出された企業名に、珠希は思わず息をのんだ。 INUI Jewelry――。 珠希の目は、スライドの説明に釘付けになった。 十一月下旬、渋谷シカクイのメインアトリウムで、INUIを中心としたブライダル催事が計画されている。館内のドレス店や写真館も参加するらしい。 「そんな……いきなり十一月だなんて。あと二か月もないじゃないか」
シカクイ本社の会議室へ入る前に、直人はペットボトルの水を一口飲んだ。 午前中から会議が続いたせいか、声が少し掠れている。昔から長く話すとすぐに喉を痛めたが、この程度で商談を延期するつもりはなかった。 「直ちゃん、大丈夫?」 同行していたルリカが、心配そうに顔を覗き込んだ。 「俺を誰だと思ってる。任せろ」 秘書が用意した資料には、来場者の年齢層やブライダル関連の検索傾向がまとまっていた。内容は悪くない。ただ、急な商談だったこともあり、費用や人員の見積もりには詰めの甘さが残っている。それでも、この好機を逃すわけにはいかなかった。 話を聞いてもらうところまでこぎつけたのは、ルリカだ。 だが、会社を動かし、企画を成立させるのは自分だ。 「行くぞ」 直人はスーツの襟を直し、会議室の扉を開けた。 + + + 「御社のブライダルフェア企画には興味があります」 シカクイの催事担当者は、そう前置きした。 「ただ、渋谷店にはすでに複数のブライダルジュエリー店舗がございます。HIMURO MOTOMACHIさんも常設店を構えていますし……特定の一社を優遇することはできません」 「それは、はい、承知しています」 直人は催事担当から視線を外さなかった。 「催事区画や広告にかかる費用の一部も、参加企業にご負担いただくことにはなります。既存店舗との調整も必要ですね」 隣で、ルリカが膝の上で手を握ったのが見えた。 ここで難色を示せば、せっかく開いた扉は閉じる。しかし、言われるまま費用を引き受ければ、利益が消える。 直人は息をつき、資料の数字を見直した。 「INUIから限定商品と販売員を出します。広告費も、売場面積に応じた負担なら弊社で持ちますよ。ただ、御社には催事全体の告知と、各店舗への導線を用意していただきたい」 「複数ブランドを比較できる催事にする、ということですか」 「ええ。こちらも、他店を退かせる意図はありませんから」 いずれにしても、主導権を握るのはINUIだ。HIMUROに先んじて、フェアに合わせた準備を進められる。しか
珠希が帰宅したとき、三板は夕食の支度をほとんど終えていた。 「あとは雪臣さんがお戻りになってから、お魚を温め直しますね」 「あっ、えっと……三板さん。今日は、私が温め直します」 三板が不思議そうに振り向いた。 「それと、食器の後片づけも……。雪臣くんが帰ってきたら、夜、一緒に甘いものを食べる約束をしていて……」 今夜はもう一度、雪臣と向き合うために、二人で過ごしたかった。 三板はそれ以上尋ねず、にっこりと笑った。 「それは失礼いたしました。では、どうぞごゆっくり」 「え、いや、そういう意味じゃ――」 「明日の朝、また参ります」 言い終える前に、三板は手早く帰り支度を済ませてしまった。 「なーんか勘違いされたかも……」 珠希が頬を掻きながら苦笑を浮かべた。ただひとまずは、雪臣とじっくり過ごす時間が確保できたことに安堵していた。 それから間もなく、玄関の扉が開いた。雪臣だ。すぐに出迎えると、彼の右手に小さな紙袋を見つけた。 雪臣は玄関に上がるなり、珠希の後ろへ目を向けた。 「……ただいま。三板は」 「おかえりなさい。今日は三板さんに先に帰ってもらったの」 「……そうか」 少し戸惑ったような顔を見せたものの、雪臣は何も尋ねてこなかった。 珠希の視線が雪臣の手にある紙袋へ移る。 「ねぇ、もしかして、それ……」 「シューだ」 やはり、シュークリームとは言わないらしい。 「ふふ。約束、ちゃんと守ってくれてありがとう。お風呂も済ませてから一緒に食べよっか」 少しだけ頷いた雪臣が、紙袋を珠希へ渡した。 + + + 夕食を終え、それぞれ入浴も済ませた頃には、時計の針は十時を回っていた。 珠希は冷蔵庫から箱を取り出し、紅茶と一緒にリビングへ運んだ。 昨夜のことが浮かび、一瞬、足が止まる。別の場所でも食べられる。けれど、今この場所に座らないと、これから先もこのソファを避けるようになる気がして、嫌だった。 雪臣は昨夜と同じく、ソファの右側に座っていた。ただし、
……昨夜あったことについて、雪臣と話し合っていない。けれど、今朝の様子を見て、彼が昨夜の行動について、ものすごく悔いていることは痛いほど伝わってきた。それだけで、珠希にとっては十分に思えた。傷つけられたわけではない。 蒸し返さずに、これまで通りでいることを選んでしまった。それで良かったのかは分からない。 ――雪臣くんとなら、この一年、協力しあえると思う。 それでも、あの言葉は嘘ではない。 + + + 今朝のHIMURO MOTOMACHIは、いつになくざわついていた。 珠希と雪臣の入籍が、社内に知らされたのだ。 瀬原が運転する車で会社へ向かう途中。社長室にも、氷室グループ各社や取引先から祝電や花が届いていると瀬原から聞いた。さらに、氷室家でも親族を集めた祝賀の席を調整していると、雪臣が言っていた。 挙式は、氷室百貨店の周年記念を控えて多忙であることを理由に、先送りにしている……しかし、本当の理由は別にある。 一年後には終わる結婚のために、式を挙げるわけにはいかない――それは入籍以前から、雪臣と何度か相談していたことだった。 「珠希さん、おめでとうございます」 会社の中へ入ると、まだ入社して間もないというのに、数えきれないほどの祝いの言葉が飛び交った。お礼を言うたびに、胸の奥に棘が刺さっていく。 珠希の左手にあるマリッジリングも、注目を集めていた。 永遠の愛を誓った指輪――ではない。けれど雪臣と何度も話し合い、二人で作り上げたものに変わりはなかった。 ――この指輪の、その先を見てみたくなった。 雪茂に言われたことが、珠希の中に残っていた。 + + + 「それで、用件は?」 午後。 打ち合わせスペースで、腕を組んだ不二子が珠希の前に座っていた。隣には、少しだけ時間がとれた雪臣もいる。珠希はテーブルに、自分と雪臣のマリッジリングのデザイン画と資料を広げた。 「……この指輪を、HIMUROのブライダルの商品として展開できないか相談したくて」 「――え?」 雪臣が驚いたように珠希の顔を見た。 「
扉を閉めても、下の階からテレビの音が聞こえていた。 雪臣は左手で杖を握ったまま、しばらく動けなかった。 ――何を、した。 この手が、珠希の頬に触れた。肩に手をかけて、顔を近づけた。 彼女は動かなかった。いや、きっと動けなかった。こちらを見たまま、何も言わなかった。その顔を思い出すと、杖を持つ手に力が入る。 明日、甘いものを買う話をしていたはずだ。 自分の言ったことに対して珠希が笑って、それが嬉しかった。けれど、単に嬉しいだけではなく、別の気持ちも同時に湧きあがった。 ベッドへ向かおうとして、イーゼルの前で足が止まった。 数日前から描き始めた、描きかけの絵の中の女性と目が合い、雪臣は思わず視線を落とした。 珠希にこの部屋の中を見られかけたときは、生きた心地がしなかった。こんなものを見せられるはずがない。イーゼルに布のカバーを被せ、フリンジを整える。 雪臣は壁際の収納棚に手を伸ばした。薄紙とデッサン用紙が数えきれないほど重なり、引き出しの底は見えない。 その棚にある絵は、どれも大学時代から、自分の手で描き上げてきたものだった。描かれているのは、どれも今イーゼルにある絵と同じ女性だ。 一枚ずつ確かめる必要はない。雪臣は重なりの中ほどへ指を入れ、何枚かを持ち上げる。その下から、一枚の紙を抜き取った。 そのまま椅子に腰を下ろし、杖を脇へ置く。 「…………はぁ」 長いため息が漏れた。 デッサン紙の左側には、ベンチに腰かけ、水色の服を着た黒髪の珠希が、少し顔を上げて描かれている。その隣は、白いままだった。鉛筆を当てては消した下描きの跡だけが、紙の表面を荒らしている。 ――これだけは、最後まで描けなかった。 描けないまま、捨てることもできないでいる。 かつてこの紙の端に記した九月九日――涙で滲んだその日付を、親指でなぞる。乾いた紙には、今もわずかな波打ちが残っていた。 窓から入ってきた秋めいた風。笑い声。水色のパジャマで、こちらを見上げた珠希。 今夜の彼女の髪は、色もこげ茶で、長さも短い。この絵とは違う。それなのに、あの顔を見た
午後は、いつもどおりだった。 役所と銀行での手続きを終えたあと、二人とも出社し、雪臣は会議へ、珠希はデザイン部へ向かった。帰宅して夕食をとり、順にお風呂へ入った。特別なことは何も起きていない。 ――私、今日本当に、結婚したんだよね? 氷室珠希。今日一日、あらゆる書類にその名を書いたが、何が変わったかと聞かれたら、どうにも答えが浮かばない。入浴前に外した指輪は、寝室のケースにしまってある。今夜はもう外へ出る用事もない。家政婦の三板も帰宅した。もう、誰かの前で雪臣の妻として振る舞う必要はない。なにもついていない左手を見ると、より一層入籍した実感が薄れた。 水色のパジャマに身を包み、珠希はリビングのソファに座ってテレビをぼんやり眺めていた。隣では、雪臣がタブレット端末で仕事の資料に目を通している。彼の薬指をちらりと見ると、今夜もやはりマリッジリングがあった。彼もお風呂を済ませているはずなのに、また嵌め直したのだろうか。それとも、入浴中も外さなかったのか。指輪をつけたまま過ごす人もいるが、彼がいつもつけているサファイアのピアスは、毎晩必ず外していることに気がついた。そのことが、少し気にかかった。 二人の間に会話はない。しかしテレビの中で芸人が何か言うたび、部屋の静けさを紛らわせるように賑やかな笑い声が響いた。 少し前に開けておいた窓から、やわらかい風が入ってくる。入浴後の火照りも、もうすっかり引いていた。 「九月に入ったからか、日暮れのあとはもう結構涼しいね」 外はすっかり姿を変えて、昼間の日差しからは想像できない、秋めいた夜のにおいがした。それでも、夏が終わったと言い切るにはまだ早い。庭では虫が鳴いている。 テーブルの上にタブレットを伏せた雪臣は、なにも言わず、風に揺れるカーテンをじっと見ていた。 「雪臣くん、寒いの?」 「…………いや」 雪臣は膝の上で手を組んで、ほどき、そしてまた組んだ。何か言ってくるのかと思ったが、彼は結局なにも言わずに、今度は黙ってテレビの方へ顔を向けた。 「……じゃあ、そろそろ寝ようかな」 言ってから、もう一度、雪臣の左手を見た。 ……このまま、おやすみ、と別々の部屋へ







